聴くことへの不慣れ
私たちには、東京駅 貸し会議室での会議に関わらず、聴く技術の訓練が足りないのです。
聴けない。
なまじ、そのようなことを知っていて、少しばかり、訓練を受けると、(傾聴訓練などというのがある)一応は聴く姿勢を見せることはできる。
だが見せかけのそれは、「イエス、バット・・・」という形で化の皮がはがれてしまうことがしばしばある。
「なるほど、君のいうことは、よくわかる。しかしだね・・・」で始まって、これまで聞いていた時間というか、聞く真似をしている問我慢していた自説が流れ出すと、もはや止めようがない。
そんな人いるだろうと思うのです。色んなところに。
私の先輩に"話上手は聴き上手"をふりまわす、説教好きの先輩がいた。
この人は、話し合うとは、聴き合うことと対になっている真実に遂に気付かなかった。
つまり、話す、聞く、をそれぞれに独立したものと理解していたのだろうね。
コミュニケーション(特に対人コミュニケーション)の日本語は"かかわり合い"が適当だと信じているのだが、この"・・・合い"の持つ、人間に対する深い意味を私たちは、もっと深く理解したいものだ。